2017年05月02日

ピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団『カーネーション−NELKEN』3月16日

一ヶ月以上経ちますが、ピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団『カーネーション−NELKEN』の感想を書きました。ピナの感想を書くことほど緊張することはない、、。

ピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団『カーネーション−NELKEN』
2017年3月16日(木)19:00 彩の国さいたま芸術劇場大ホール

さいたま芸術劇場にて、日本では28年ぶりの上演となる『カーネーション−NELKEN』を見てまいりました。
舞台が始まって、その心地良さに気付きました。目の前で繰り広げられる場面は優しいだけでも美しいだけでもなくて、時に悲痛で暴力的で、その表現は痛切に心に響きます。でも目を覆いたくなるようなものは一切なくて、なんて人は愚かで虚しくて、そして優しくて美しいんだろうと、一体ピナの目にはどんな風に人間が映っていたのか、その深い眼差しと愛を感じずにはいられません。そのピナの眼差しが、舞台だけでなく劇場全体を満たしているようで、その空間に心を浸していられる心地良さを、見ている間ずっと感じていました。あの空間にいられる幸せ、それに尽きるかな、と。ずっと見ていたくて、「終らないで」と思わずにはいられませんでした。

いろいろな形の暴力が出てきました。いろいろな立場や関係。それは直接だったり、時に間接だったり。身体的、あるいは精神的な苦痛。さらに状況という暴力。人は様々な痛みを受けます。様々な断片が、時にヒステリックに、執拗に、残酷に、そして美しく哀しく、ユーモアを伴って描かれます。それがあの信じられないくらい綺麗な一面のカーネーションの中で描かれる。そのカーネーションは最後にはほとんどなぎ倒され、舞台の両袖には強引に押しやられたダンボールの山の残骸が残ります。あの荒涼とした、それでもどこか清々しい舞台。それはそのまま、舞台を見終えた私の心のようでした。
山海塾の舞台でも常に意識されていると思うんですが、最初と最後で舞台が変化しているのがとても印象的でした。人がそこで生きていた証、感情が存在した証が残された舞台は、約2時間を供に生きていたからこそ感じる美しさがありました。あんなに優しくて懐かしい、美しい荒野はないかもしれません。

子どもを叱る親。泣き喚く子どもに、「外に聞こえる。恥ずかしい。」とまた叱る。別の親は、「これはズボンを汚した分」と子どもを叩きます。叱られた子どもの、「ママー!」という叫びが堪えました、、。それでも子供は親を嫌えない。理不尽に叱る親も、子どもを愛していないから叱るのではないかもしれない。上手に愛せない自分に苛立っているのかもしれません。不器用で哀しい。
男性が女性を肩車してスカートを被せると、巨大な女性になります。あの不自然さ、違和感。ちょっとユーモラスで笑ってしまうんですが、でもなんだか滑稽で哀しくもある。あれを肥大した自己意識と捉えるのは考えすぎでしょうか。
後半には、一人の男性が男女に命令をして、同じように肩車をします。そして、もう一人の男性に、動物の真似をするよう指示を出させる。肩車をされた女性は、男性に言われてしぶしぶもう一人の男性に命令をする。自分は強要したくないことを、人に命令されて仕方なく強要する。それもまた苦痛という暴力だな、と。
相手の頬を平手打ちしては、その頬に優しくキスをするのを繰り返す、2人の男性。交互に「平手打ち→キス」を何度も何度も繰り返すうちに、2人の頬は真っ赤になります。
テーブルに上り、直立のままバタッと倒れる男性たち。それを椅子に座って見ている女性。女性に威圧的な視線を向けたままテーブルにバタバタと倒れるのを4・5人の男性が順に繰り返します。徐々に女性のほうにテーブルを近付けながら。女性は恐怖して悲鳴を上げる。お構いなしにどんどん女性のほうへテーブルを近づけ、彼女に視線を向けながらテーブルに強く身体を打ち付ける。近付くほどに女性の恐怖は強くなります。もう身動きも取れないほど女性にピッタリとテーブルが近づく。まるで「これで許して」と言わんばかりに、バッグの中からお菓子を出してテーブルに並べるも、男性たちは意に介しません。
舞台の左右に足場が設置され、その前に組み立てられた空のダンボールが次々に積まれていきます。ダンサーたちは椅子を持って移動しては踊る。一人の女性がその状況に混乱して悲鳴を上げながら、カーネーションの中を右往左往するも、ダンボールはどんどん積まれていきます。最後にダンボールの周囲をガムテープでぐるぐる巻いて固定すると、左右の足場に男性が上っていきダンボールにダイブ! ダンボールは強引に袖に押し込まれ、舞台の左右に崩れたダンボールの山が残ります。

一つだけ辛かったのは、最後に観客も立ち上がって一緒にジェスチャーをする場面です。舞台上のダンサーに「立って下さい」と促され、ダンサーのレクチャーに従ってある動きを全員で行います。腕を順に広げて自分を抱きしめるという簡単な動きなんですが、参加型の舞台がひどく苦手な私には辛かったです、、。でも、一人だけ座ってて周囲の人に不快な思いをさせるのは申し訳ないので、ちゃんとやるんですが、、。その後は「座ってください」のアナウンスがないまま舞台が進むので観客は立ったまま。やがて、ダンサーたちが踊る春夏秋冬の手話を、多くの観客たちが自発的に一緒に繰り返します。参加型の舞台を提供する側の意図とはなんでしょうか? 座ることを促さなかったのも「敢えて」ですよね、きっと。一緒に体験することが純粋に楽しいという方も大勢いるとは思うんですが、私のように苦手な人間も少なからずいるはず(そっちのほうが多かったりして)。もしかしたら、むしろ私が感じているような苦痛や疎外感が狙いなのでしょうか。そこまでいかなくても、座っていいかどうかわからない状況や、春夏秋冬の手話を自分も行うか迷うといった、ちょっとしたモヤモヤを起こさせることが狙いなのかも?と思ってしまいました。

4匹のシェパードが登場したんですが、彼らが可愛くて可愛くて♪ 1匹ずつスーツの男性がリードを持って常に付き添っています。とにかく可愛い、、、(♪)。ただ、ダンサーたちの動きに驚いたのか、落ち着きがなくなって吠えちゃってる子もいて、怖がっていたのなら可哀相だなぁと心配にもなりました。とっても頑張っていたと思います。ご褒美とかもらえるのかなぁ、、。

終盤の玉ねぎのシーンも印象的でした。ひたすら玉ねぎをみじん切りする男性。そこへ一人ずつ男性がやって来てテーブルに腰かけると、山となったみじん切りにズボっと顔を埋めます。辛そうに顔を歪めて舞台に立つ。次の男性も、また次の男性も同じようにして、玉ねぎが顔に少し付いたまましんどい顔した男性が並びます。なんか、変な感想かもしれないけど、そこが一種の逃げ場のように見えました。しんどいことがあるとここへ来て、玉ねぎにズボっと顔を埋めてリセットする、みたいな。男性は、ひっきりなしに訪れるそんな彼らのために、延々と玉ねぎをみじん切りしているようでした。

ラスト、男性も女性もワンピースを着て、一人ずつ登場し、バレエを始めたきっかけを語ります。きっかけは様々です。兄弟に着いて行ったとか、とにかく動く子どもだったとか、ダンサーあるあるじゃないけど、きっかけは些細なことだったり意外なことだったりして。でも、なんだかそこにはダンスへの愛が溢れていて、思わず涙ぐんでしまいました。

ピナの舞台には、とても不器用だけど真剣に生きている人たちがいて、そこには人間やダンサーや、ダンスへの愛が溢れています。それは、ピナがなくなった今も変わることはありませんでした。もう彼女はいないけど、彼女の残した舞台はまったくその力を失ってはいませんでした。

今回の公演では、開演前と終演後の撮影が許可されていました。

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posted by uno at 12:46| Comment(0) | バレエ公演2017 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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